昨日のエントリ
(【長文】目に見えないのに確実にある「フツーの枠(わく)」)では、よしながふみ×三浦しをん対談にかこつけて、いろいろと自説を語ってしまったわけですが、なんだかまるで、
「女の人は、男の人に比べて生きにくい」
と主張してるように感じられた方もいらっしゃるかもしれません。
でも実は、個人的には、そう思っているわけでもないのです。
「男の人と女の人は、
違う生きにくさをもってるなあ」と思っていて、ある意味では、(特に若い)男の人のたいへんさってすごいものがあるんじゃないかな、と感じています。
よしながふみさんは、『小説ウィングス』2006年冬号でも三浦しをんさんと対談されていて、ここでも、
●男の人の抑圧ポイントは、大きく言うと「妻と家族を養っていける立派な男の人になりなさい」という一つ。
だから、男の人は、固まって共闘できる。
●でも、女の人は抑圧のポイントがみんな違うから、一人ひとりが辛い部分が違うので、共感できない部分があると思う。
という意味のことを指摘されていました。
この指摘を読んだ当時は目からウロコで、思わず膝を打ちました。
そうか!!
だから、女の人の「萌え」も、一様には語れなくてバラけてしまうのねーと。
★★★
じゃあ、男の人の抑圧ポイントは一つだから、男の人は生きていくのが楽で、幸せなのか?
というと、けっしてそんなことはないんじゃないかな、と私には思えます。
少なくとも、特に私と同世代以降(現在の30代以下)の男性は、なかなか大変なんじゃないかなぁ、と。
そう思うに至った大きなキッカケの一つが、一昨年出た、『電波男』(三才ブックス)という本でした。
この本で、著者の本田透さんは、
「心優しきオタクの俺をキモいと差別する女どもめ!」
「おまえら現実の女に用はない!」
「おまえらなんか萌えないゴミだ!」
「俺は二次元の女の子と、脳内恋愛する!」
というすさまじい逆ギレ宣言をされていました。
…と言っても、罵倒する言葉もいちいち、
「てめぇの乳は、何カップだー!?」と
南斗水鳥拳のレイのセリフのパロディだったりと芸が細かいので、オタク女子である私なんかはわははとウケつつ、(男性ではないにもかかわらず)かなり本田さんに共感しながら読んでしまいました。
本田さんはたしかに、本の中で現実の女に対する怨念を叫んでいるのですが、でもそれに至る経緯をも読み物として面白く脚色しつつも、かなり赤裸々に激白しておられます。
その受けた痛手のすさまじさや、あたかもその痛みをバネにするかのようにキレてみせる姿には、
「怒りを表現するときにもし相手を傷付けてしまうとしたら、
俺は自分の方をもっともっと傷付ける!!」とでも言いたげな、屈折した優しさというか、目的なき(あるけど)自爆テロというか……
理屈は通ってないような気もするけれど、ある種の美学を感じるというか、いわば
「逆向きのダンディズム」とでもいうべき部分を感じて、その筆力に笑わされながらも、
「ああ、同世代のオタクの男の人は、こんなに傷ついてきたんだなあ…」
と思わず(勝手に)胸が痛くなったのでした。
★★★
そういえば去年の3月に、ロフトプラスワンで、切通理作・本田透両氏のトークショーが行われたのですが、ここで会場のお客さんから、
「本田さんはご自分でおっしゃるほどキモくないと思うんですが、どうして自分をキモい、とおっしゃるんですか?」
というような質問が出たとき、本田さんはこう答えられた、と記憶しています。
「お前はキモい、お前はキモい、と何年も何年もずっと言われ続けてきたからです」
「人は、(お前はこうだ、と)言われたものになっていくんです」
この言葉を、折に触れて思い出します。
「人は、(お前はこうだ、と)言われたものになっていくんです」
という言葉。
忘れられません。
本当にそうだな、と思うので。
★★★
現代は、地域社会とのつながりが希薄化し、マスメディアというもう一つの「世間」の声が相対的に大きくなっているように感じられます。
そのマスメディアによって、少なくともここ20年くらい、比喩的に言うと、若い男の子たち(特に、オタク男子)は、
「(お前は)ダメだ、ダメだ」
と言われ続けているような状況なんじゃないかと思います。
連続幼女殺害事件に端を発する、ちゃんと検証もされていない、根拠の薄い、でも執拗なオタク男子へのバッシング。
それによって静かに、でも深く、オタク男子は傷ついていたのではないかと。
っていうか、私がオタク男子なら傷つきます(←と、無駄にオタク特有の想像力を発揮)。
マスメディアを経由して「オタクは犯罪者予備軍」とか「オタク、キモい」というイメージを共有した「世間」から、ずーっと10数年間、そういう風に「みなされる」「まなざされ続け」れば、そりゃあ逆ギレして「俺たちが何したっていうんだ!ふざけるな!」「もう三次元の女に用はない!」「俺は二次元の美少女と脳内恋愛する!」と言いたくもなるわなぁ、と思います。
当たり前だよ、と。
たとえオタク男子じゃなくったって、なにげなく雑誌や新聞を見たって、
「いま、日本の若い男性が元気!」
みたいな記事なんて、ほとんど見たことない。
今や「もう一つの世間」であるマスメディアでは、若い男性がとりあげられることはとても少なく、とりあげられるとしたらネガティブな要素のことが多いように思うのです。
女の人は、消費のターゲットとして認知されているから、
「女性に人気の●●」
というのは商品やスポット紹介の枕詞になるし、それなりに注目もされている。
消費の「お客さま」として注目されることがホントに大事にされてることになるのかはともかくとして、まあそういう形で、女の人はなんとなく、メディアではおおっぴらに叩かれることは少なくなっています。
それと、社会構造の変化や、なんといっても昔のような「右肩あがりの経済の成長」がなくなっているのも、若い男性にとっては、厳しい状況でしょう。
ただ会社に勤めていれば基本的にお給料が上がり一生安泰、という時代ではもうなくなってしまった。
多くの男性にとっては未来に希望がもちにくいだろうし、結婚に関して(経済的な理由で)、意欲的になれない人も多いんじゃないかと思います。
なんというか、全般的に若い男性が、「俺もなかなかよくやってるよな」って、希望をもてるような要素が、あまりにも少ないんじゃないかと思う。
ロバート・B・パーカーの『初秋』という小説に出てくる「(自分自身に対する)ある程度の誇り」という言葉で示されるようなもの。
妄想的な全能感とかじゃなくて、現実に結びついた、妥当な、身体化された自己肯定感、とでもいうようなもの。
それがなくては、人は生きていくのがとても大変なんじゃないだろうか。
★★★
なんだか気持ちが先走りすぎて、ひょっとしたらうまく言えてないかもしれないけど、
私が興味があるのは、
「男と女、どっちが悪い合戦」とか、「どっちが大変競争」ではなくて、
いまのこの世の中で、男の人と女の人が、どうすればいい関係になれるのか、
どうすれば幸せになれるのか、
ということです。
一つ、なにかヒントになるのでは、と思っているのは、人間関係における『育てる力』というものについて。
「人は、(お前はこうだ、と)言われたものになっていくんです」という言葉は逆に、肯定的なメッセージを送られ続ければ、そこに応えて成長していける部分もある、ということになるだろう。
少なくとも、そこで気持ちが安定する、ということではあるんじゃないだろうか。
そういう力をもつことが、生きやすくなるための大きな何かになるんじゃないかな。
もちろん、妄想的に、能力や条件を無視して「あなたってルックスよくて頭もキレる、凄くステキな人ね」とか言われた日にゃあ、
「バ、バ、バ、バカにしてんのかぁ――!!」
と逆ギレしたくなるわけですが、そういうことではなくて、存在丸ごとをまずは肯定して、しかし同時に抱きしめすぎない、そういう力。
本来、家族というのは、そういう機能をもったものだったんじゃないだろうか。
すべての家族がそうだ、というのではなくて、人は、血縁でそれができなければ、違う関係の中(たとえば友人とか)でそういう存在を見つけていってたんじゃないだろうか。
そういう存在なしに、「自分の外側は、いきなり『世間』」という状態っていうのは、やっぱり人にとっては、ずいぶんと厳しいんじゃないかなあ。
基本的に、私たちの生活は、昔よりずっと豊かになっているような気がする。
でも、精神的に、「自分のことだけでいっぱいいいっぱい」、という人は、昔よりなんか増えている感じがする。
その状態には、「育てる力」は介在しない。
たぶん、その一見無駄にさえ見える「育てる力」が、私には、人を幸せにするためにとても大事なものなのだと思えるのだけど。
★★★
いささか漠然としていますが、そんなことを考えています。